高田昌幸「権力監視の条件と環境」 第3回
この記事は、日本記者クラブ主催・第10回記者ゼミの講演、および質疑(2015年11月27日、日本プレスセンター)をベースに加筆し、再構成したものです。主に新聞社・通信社の若手、中堅記者を対象にして、権力監視型の調査報道を進めるに当たって、「何をすべきか」「何ができるか」を語っています。第1回・第2回に続き、最終回の今回は質疑応答の詳細も記されています。
◆権力監視を進める組織的な条件
新聞社や通信社といった組織での調査報道を考える際は、「権力監視報道を可能にする組織的な条件」も重要です。メディアはどうやって、調査報道を実践するか、その組織上の条件は何か、という視点です。
まず「何よりも持ち場で自己の役割を果たす」が大事。これは先に説明しました。それから「最初は少人数で」やる。これも必須条件だと思っています。最初から10人で調査報道をやりましょう、このネタで、としてしまうと、絶対うまくいきません。
うまくいかない理由は、たったひとつです。
調査報道の取材は、そのテーマについて、みんなが同じ知識、同じ水準を保ちながら取材を進めていくことが大切です。情報も共有しながら、です。そうしないと、取材の分担が困難になり、チーム内に不協和音が生じます。その点、少人数のほうが話は早いですよね。10人が同じ知識水準、同じ理解力に達するというのは大変なことです。「この取材は誰々さんに任せたよ」と言ったつもりが、彼の理解がついていってなくて取材先できちんと質問できなかったとか、そういうことは往々にして起こります。ですから、最初は少人数で、絶対やるべきだと思っています。
それから「他部署に任せない」こと。これも非常に重要な、かつ、取材者として本来的な姿だと思います。例えば政治家の不正や不祥事。あれは基本的に政治部の記者が徹底取材すべきです。政治家の不正やスキャンダルは政治部の記者がやるべきです。警察のスキャンダルは警察担当がやるべきです。すべてガチンコでね。そうでないと、何のための担当か、何のために権力機構にベタ張りしているのか、ということですね。
それを突き詰めた形が、私が10年ぐらい前にデスクとして手掛けた北海道警察の裏金問題です。あれは基本的に全部、警察担当記者が警察とガチンコでやりました。そのために記者クラブにいるわけです。
お題目として「記者クラブは権力監視のためにある」と言われます。しかし、それをお題目のままにしてはいけないということです。当たり前ですけれども、外務省の権力悪は外務省の担当記者がやればいい。同じ新聞社の政治部の外務省担当記者が「外務省の不正の取材は社会部の仕事だ。社会部がやれ」などと言っていたら、思い切り言ってください。「ふざけるな、まずおまえがやれ。そうやって逃げるのか」と。
これは絶対的な基本だと思います。
何々部とか関係なく、記者クラブを拠点にして権力機構、行政機構などに張り付いている記者たちがガチンコで日々、相手と向き合う。これをやり続ければ、おそらく日本のメディアの力は、対権力との関係で相当に上がっていくだろうと思います。目の前の勝負どころで自分の逃げ道をつくるから、なめられるし、全体としての力は上昇しない。
◆専門チームは機能するか
これを突き詰めると、「調査報道の専門チームは機能するか」という問題に突き当たります。いま、いろんな新聞社で、朝日新聞だったら特別報道部、共同通信だったら調査報道室かな、いろんな調査報道のチームができています。それが機能するかどうか。
私は、そういう組織をつくっても、それだけで機能するというものではないだろう、と思っています。
調査報道の主たるものが権力監視だとすれば――きょうは権力監視の話です――権力の近くにいつもいる記者は誰ですか、と。現実、省庁の担当記者、記者クラブに詰めている記者がいるわけです。その人たちがふだん、権力監視をやればいいわけです。その人たちが「俺が取材するのは政策だ。不正の取材は特別報道チームでどうぞ」と言っていて良いのか。そういう流れの延長線上で、当局に都合の良い記者になっていいのか。権力のポチになっていいのか。それだと、絶対うまくいきません。常日頃、その場にいる人がガチンコで勝負せずして、誰がやるのでしょうか。
では、特別報道チームみたいなものが無意味かというと、そうとも思いません。権力の日常を監視するという形ではなく、別のアプローチによる調査報道があるだろうと。とくに歴史的な視点を必要とするような検証報道。そういったものは、特別なチームが必要です。NHKスペシャルを創るようなイメージですね。
でも、特にこういう時代に入って、安倍政権がいろいろとプレスに対してプレッシャーをかけているような状態で、一番必要なのは、根本の足元のところで権力機構と向き合うことだろうと思います。それが第一だろうと。調査報道によって、権力の薄っぺらい皮を引っぱがしてやるぜ、みたいな。本当の意味での調査報道は、やはり現場で張りついて見ている人でないとできないし、そういう人が担わない限りは、いまのメディア状況はなかなか変わらないんじゃないかと思っています。
撮影:穐吉洋子
◆会場との質疑
質問 メディアは偏っていると最近言われます。神奈川新聞の「偏ってますが、何か?」という論説記事も話題になりました。それに関連して、いま全体のメディアがどう萎縮しているか、それについてどうするべきか、調査報道からは外れるかもしれませんが、うかがいたい。
高田 話題になった「時代の正体」に出てくる話ですね。そもそも中立というものがあると思うほうがおかしいのではないでしょうか。中立って、何ですか? 例えば、あなたと、いま私が立っている場所の真ん中に立てば中立ですか? 釈迦に説法みたいな話ですけれども、全てのメディアの報道は、全て誰かの目と頭の中を通って加工編集されているので、その時点で、全て偏っています。そもそも何を取材するかを選択する時点で、既に分岐点を通過しているわけです。選択はイコール、編集です。
基本的に偏向と中立が対義語であるかのように考えることが変なんだろうと思っています。「偏向」の対義語は「中立」でしょうか? 私は、違うと思う。偏向の対義語は「多様性」だと思います。偏向と中立は互いに相対する概念ではない。
何か、中立であることが大事であるかのようないまの風潮は、「役所イコール中立」であるかのような刷り込みになりつつあって、行政の立場、行政の言うことが中立、と。これ、変でしょう? 平たく言えば、「おまえは中立じゃない、偏っている」と言われても、「それがどうしたんですか?」という話であって、あの神奈川新聞の記事のとおりですよね。
最近は、教育委員会が「政治的中立に配慮して」などという言い方をします。「政治的中立に配慮して、何とかホールでやる反原発の講演会の後援はしません」とか、「県教育委員会はそれをサポートしません」とか。場合によっては、後援の取り消しだけでなく、「会場の使用をそもそも許可しない」とか言い出すわけですね。
では、中立であるかどうかを一体誰が判断しているか。一役人が裁量権で判断するのか。そもそも、行政に中立かどうかを判断させていいのか。そういう問題が出てきます。
「政治的中立」という言葉が一般名詞としてすでに流通し始めている。政治的中立を守れ、みたいな、国体護持みたいな。冗談じゃないんですよ。多分、戦前の感じもこういう感じだったんだろうと思います。
◆記者クラブと調査報道の関係
質問 先ほど、調査報道のチームを特別につくってやることについて、別のアプローチがあるだろうとおっしゃいましたけれども、いわゆるクラブに張りついていない、遊軍的な立場のメリットといいますか、どんなアプローチがあり得るか。
高田 毎日新聞が1980年代にやったミドリ十字事件が晩聲社から、『偽装』という本になっています。その巻末に、当時の毎日新聞の大阪社会部の方が20~30ページ、「社会部遊軍とは何か」ということを書いている。
当時の社会部遊軍は、半ば、イコールで調査報道チームだったようです。あれを読み返していると、記者クラブに張りついている記者もいるんですけれども、世の中の問題というのは全ての役所がカバーしているわけではない。
ミドリ十字事件の場合は、社会部の遊軍チームが「731部隊で働いていた人たちがその後日本のどこに戻ってきたか」を調査しているうちに、日本ブラッドバンク(ミドリ十字の前身)で血の売買にかかわっている、そこで人体実験みたいなことをまだやっている、ということを掴んでいく。それの取材の流れをみていると、「731はその後どうなったかを調べてみよう」と言いながらミドリ十字のほうへ行くわけです。
記者クラブでの張りつき取材は、日々、権力機構が何をやっているかをチェックするわけですね。ものすごく重要です。でも、もっと広いワイドな視野でいろいろな出来事を見ることも必要なことも当然にあるわけです。クラブ詰めが虫の目だとしたら、毎日新聞のこのチームは鳥の目。広く見渡しながらやっていく感じです。
もうひとつ、記者クラブ詰めになっていると、どうしてもその瞬間瞬間で勝負していくので、少し過去にさかのぼるような歴史的な視点がどうしても弱くなる。調査報道チームのようなものを仮に自由に動かせるんだったら、少し過去にさかのぼりながら、何年か前のやつを掘り起こしていく。そういうこともできる。
例えば、日本の原子力の歴史。みんな初代の原子力委員長の正力(松太郎)の話はする。原子力委員長初代は正力ですよね。3人目、誰か知っていますか。正力です。
では、2人目は誰ですか。ほとんどの人が知らないです。原子力開発の歴史本を読んでいても、あまり出てこない。2人目は、宇田耕一氏という人がやっているんです。私のふるさと、高知選出の代議士だった人です。宇田委員長はIAEA(国際原子力機関)で演説したり、他の重要なこともやったりしているんですが、なぜかスポットが当たっていない。宇田氏はもう亡くなっていますけれども、親族宅などに、もしかしたら宇田家の日記か何かあるかもしれない。宇田氏が原子力にどういうかかわり方をして、例えば、核オプションで、核兵器を持つか持たないかの議論がどう始まったかとか、もしかしたら重要な資料があるかもしれません。
そういう感じで、歴史をちょっとさかのぼりながら動くのは、チームとして自由な遊軍の機能、調査報道チームがふさわしいでしょう。世界に目を広げて、取材を組み立てるケースもある。記者クラブに張りつきだったら、なかなかそういう動き方もできないですから。だから、専門チームも日常監視チームも両方大事だと思います。

◆内部告発者に利用されないか
質問 調査報道は端緒が全て、ということなんですけれども、その情報がマスコミを通して世に出ることによって、情報をリークしてくれた人、内部告発をした人の得になるようなことも考えられる。要は、マスコミを利用して、自らの立場をよくするために情報を出す。そういうことも十分に考えられると思うんです。そういったときに、その情報に公益性があるのか、正しいものか、利用されていないか、そのへんをどう判断したらいいのか。
高田 内部告発の動機は、経験上、基本的に私怨です。一番多いのは恨みつらみです。「あの上司、許せねえ」とか、「この局長、ぶっ飛ばしたい」とか、基本、最初はそういうところです。それはそれでいい。というか、真っ当な正義感だけに燃えて、内部告発によって自らの組織を良くしようと思って立ち上がる人というのは、実はそんなに世の中にはそうそういないだろう、と。逆に、正義オンリーで内部告発に来た人は、僕は少し警戒します。あまりにもリアリティーに乏しい。
そういう点からすると、報道が内部告発をした人の利益になるとか、あるいは内部告発をした側の組織の利益になるとか、そういうことは結果としてはあると思います。でも、それと報道することの公益性、社会性の判断というのは、次元がちょっと違うと思う。
でも、利用されるかもしれない、という自覚があれば、僕は大丈夫だと思います。知らずに利用されるのはだめですけれども。あとは、利用される程度と、記事の影響力や公共性、それらとのバランスみたいな話ですから。
「利用されている」という点で言えば、ふだん僕らは記者会見やレクで、さんざん利用されているわけですよ。利用されようとしているわけですよ。結果として、相手の行政的な広報を一生懸命している。それを気にせずして、「内部告発で利用されたらどうしよう」なんて考える必要はないと思います。
この関連で、内部告発者をどう守るか、についても触れておきます。一般的に言えば、どんなことがあっても守る。それが全てです。情報源をばらしてしまったら、この世界では終わりです。記者生命も終わりです。
では、どうやって情報源を守るか? 基本的は誰にも言わないことです。
昔、ウォーターゲート事件のとき、ボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインが『大統領の陰謀』という本を後に書きますけれども、「ディープ・スロート」と言われた情報源はFBIの副長官だった、という暴露話をFBIの副長官の家族か誰かが、5~6年前だったですか、本に出しました。そのとき、ボブ・ウッドワードのほうは「そのとおりだ」と言ってしまったんですね。プレスから「そのとおりなんですか」と尋ねられて、「そうだ」と言っちゃった。おまけに『ディープ・スロート 大統領を葬った男』という本まで書いて、絶対秘密だったはずの情報源との関係を微に入り細に入り書いてしまった。あれはまずい。どんな状況になっても、たとえネタ元が故人になっても情報源を口にしてはいけないんですよ。あの事件のネタ元は俺です、という人が何年かたって名乗り出てきたって、「ノーコメント」と言い続けなければいけない。
◆「取材を諦める・まだ粘る」の分岐点
質問 当然、事実に突き当たることもあると思うんですが、諦めることもあったと思います。百発百中ではないと思う。諦める「めど」があるとすれば、どういうところですか。
高田 もちろん書けなかったテーマ、ネタはたくさんあるわけです。
例えば、高知新聞ある企業の不正を追っていたときのことです。金の変な流れがどうもありそうだ、となった。で、その金の流れを知っている内部の社員が当然いるわけですよ。キーパーソンとして。誰が金の流れを知っているか、まずそれを特定しないといけない。その人に社外で会ったり、夜に自宅を訪ねたりしながら、いろいろ説得を試みるわけですよね。で、最終的には「帳簿を見ることができないか」と持ち掛ける。当然、なぜそれが必要かを説明します。それによって、どんなことをただしたいのか、それも説明する。全身全霊で説得するわけすね。人間力です、そこは。
でも、何回もやっても結局らちが明かない。そういうとき、元職を当たります。以前にお金を扱っていたポストにいた人を探し出す。でも、その人もなかなかうまくいかない。経理関係の物がない以上はしようがないので、変な所にお金が流れたんじゃないか、というのはその時点で諦めました。
別の例では、北海道新聞の時代の経験もある。北海道庁の首脳に100万円の現金が渡ったという話があった。預金の元帳の写しまでゲットして、現金が首脳に渡ったことも間違いない、と。「よっしゃー」となりました。お金を渡したのは、東京・上野の会社。道庁の発注先でもあった。
すると、この上野の社長は「この金は一体何なんだろう」と言うわけです。お金を首脳の口座に振り込んだ会社の社長だったんですが、振り込み時と取材時では経営者が変わっていたんですね。ほかにもいろいろあったのですが、とにかく社長は100万円の趣旨を説明しない、できない。
これは、こういう意味の100万円です、と。それを誰も言ってくれなくて、その状態のまま首脳のところへ取材に行ったんです。「あなた、100万円もらっている。この趣旨を説明してくれ」と言ったら、そのときは「何でおまえ、俺の口座に100万円入っているのを知っているんだ。どうやって知ったのか言ってみろ」と言うから、「方法は言えないけど、確認した」と。そしたら「俺の個人の口座に100万円入っているかどうか、第三者のおまえが知るには、銀行しかないだろう」と言われて。
でも私は「情報の入手先は一切言えない」。すると「そしたら俺も取材に答える義務はない」と向こうが言い出した。100万円入っていることは間違いないし、提供者は道の発注先。でも、誰もその趣旨を説明してくれない。会社側も経営者替わっていて、分からないと言う。書こうかどうかすごく迷って、書きませんでした。書かなかったですね。
書けばよかったなと、後悔もしました。書けば何か展開があったんじゃないか、書けば、きっと首脳は追い込まれて辞職せざるを得なかったんじゃないか、とか。
だから、調査報道の取材を諦めるという理由は、ひと色ではないですね。しかし、共通するのは「詰めが甘い」という自分の判断。「甘い」と思って、その先に進めなくなったら、諦めます。そのハードルは相当、厳しく自分で設定しているつもりです。
あえて言えば、ある意味、「見切り」ができない記者はだめだろうと思っています。「とことんやるぞ」というしつこさは必要ですけれども、いつまでもそれを引きずっていたら、それで人生が終わっちゃうじゃないですか。だから、どこかで見切らなければいけない。そういう意味での、この方向でやるぞとか、やめるぞとか、方針転換するぞとか、そういう決断を自分でちゃんとできないとだめだろうとも思います。

◆客観報道をどうするのか
質問 先ほども質問にありましたけれども、「中立」が多分あり得ないな、というのはわかる。けれども、では、客観性、客観報道をどうするのか。
高田 客観性というのは、単純な主語の問題じゃないんですよね。「私は」で書くから主観的だとか、「政府は」と書くから客観的だとか、そういうことではない。正確に取材源をどこまで明示できるか。それが客観性の担保だと思います。調査報道であれ、なんであれ、です。
ことし高知新聞で力を入れて若い記者にやってもらった戦争の掘り起こし記事がありました。「秋(とき)のしずく」というキャンペーン連載です。読んでみるとわかるんですけれども、こうした記事には引用先が明示されている。調査報道の記事もそうなんです。どういう取材をしたか、それが見える。もちろん、情報源の秘匿はきっちりやっている。それと引用先の明示を区別してやることが大切だと思っています。
客観性で重要なのは、実は引用先の明示と同時に、可能な限りは取材源を明示することなんですね。それを明示できないときは、「複数の関係者によると」とか書きますけれど、本当はよくない。関係者という用語はよくない。
特に調査報道の場合、記事の筋立てを記事に沿って第三者が検証できるようにしておくこと、そういう書き方をすることが大事なのではないか。そう思っています。
話は飛びますけれども、私は、調査報道だけではなく、これからの報道で一番大事なことのひとつは、取材のプロセスを読者に見せることだと思っています。いままでは、何か神様のように、上の方からニュースがおりてきて、それが客観中立であるかのように書いていた。例えば「政府は何日○○○○の方針を固めた」という書き方が何となく客観中立であるかのようなイメージとイコールになっていたのではないか。
では、「政府が何日、○○○○の方針を固めた」という記事について、その取材のプロセスを明らかにすれば、どうなってしまうか。私は東京で官邸取材をしたこともあるので、分かるのですが、イメージとしてはこうです。
「首相官邸の××××秘書官は、何日夜、首相官邸の番記者5人を集めて、赤坂のイタメシ屋でワインを振る舞いながら、『これこれのやつはもう君らは書いていいよ』と述べた。この会合の会費は1人5,000円だった」とか。で、「記者は全員、その話を承ったものの、質問はしなかった」とか。それが取材のプロセスじゃないですか。こうやって取材のプロセスを明示していくと、この記事は客観中立というよりも、政府要人の言い分を一方的に伝えている記事だな、ということが見えてしまう。取材はすべて、コミュニケーションの結果なんですね。そのコミュニケーションそのものを見せていく。
身も蓋もないかもしれないですけれども、そのプロセスをきちんと開示して、きちんと見せる。そのプロセスも含めて信頼性を得ることが大事なんじゃないかと思っています。記事の品質が本当に確かなら、取材プロセスも確かなはずです。それを見せることが、客観性の担保じゃないか、と。
それなのに現状は、「朝日の看板の下にぶら下がっている記事だから信用しろ」とか、「高知新聞だから信用しろ」とか、そういう感じです。もちろん、その意味でのブランド力はもちろんあるし、もっとブランド力を高めなければいけないんだけれども、取材・報道の構造やプロセスが読者に見えなければ、戦前と同じだと僕は思っているんですよ。
「多くのメディアが報道している」から、「多くの権威あるメディアが報道している」から、だからみんな、信用しちゃった。大本営を信用しちゃった。あれは大本営を信用したのではなくて、大本営を報じるメディアのブランドを信用したんだ、と僕は思っているんです。それと同じ構造を現代においても、読者との間で築いていいのか。
では、それに関して何ができるのかといったら、取材のプロセスを極力明らかにする。そのかわり、内部告発的な人は徹底的に守る。
「政府は何日、○○○○の方針を固めた」という記事はやめて、「菅官房長官は何日夜、官房長官の番記者5人を相手に、『もうおまえら書いていいぞ』と述べた」という形の記事を出す。「書いていいぞ」と官房長官が言った、それがコミュニケーションです。必要なのは、そんな記事だと思う。これだと思う。それを読者がどう受けとめるかですよ。
冗談じゃなくて、僕は本当にそうじゃないかと思っている。
◆調査報道と取材プロセスの可視化
高田 調査報道が比較的価値あるかのように読まれる理由の1つは(調査報道の記事では、全てじゃないですけれども)、何となく取材のプロセスが見えるからなんですよ。開示請求をしてこういう資料が出てきたとか、取材のプロセスが見えるじゃないですか。単純に「毎日新聞の取材でわかった」だけではなくて、「読売新聞が何日、これこれの開示請求をして得た資料によると」とか書いてあるんじゃないですか。それはプロセスが少し見えているんですよ。それをもっと見せてやることです。
事件報道でそれをやってみたらどうかと思って、以前、頭の体操をやっていたことがあります。「札幌中央署は何日、××××容疑者を逮捕したと発表した。広報担当の山田太郎副署長によると、逮捕容疑は△△△△△した疑い。でも、北海道新聞は、警察サイド以外にこの事実を裏づける情報は持っていない」。発表どおり書きました、と書いちゃうわけです。だって、それが実際の取材のプロセスだったら、そう書くのが正しい。
あと、さっきも言いましたが、本当は「関係者」というのは、内部告発的な人を別にして、基本的にだめだと思います。読者には「関係者」って誰なのか、わからないです。だから、「関係者」がなぜ匿名を希望しているかをどこかに書いておく。外国のメディアなどはそうじゃないですか。なぜ彼は匿名を希望しているかをちゃんと書く、それが必要だと思うんですね。本分中に書きにくかったら、原稿の末尾の注釈でもいいかもしれない。書ける範囲で、関係者がどういう立場の人かをちゃんと書いていなければいけない。
「関係者」って誰なんだ、というのを突き詰めて表現していないから、取材も甘くなるんですよ。「ああ、じゃあ関係者、にしておきますか」みたいな。そんなことを続けていると、甘い取材が横行し、結果として取材力の劣化は続くだろうと思います。
=終わり





